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「From 身体 To 批評」批評文 1

2015.11.15

BY 小泉篤宏

「コンテンポラリーダンス」なんてない、というところから始めてみよう。

あるようでない、ないようであるようなよくわからないもの。コンテンポラリーダンスってなんだろう?

まずは音楽の話から。

ある人が音を出し、音楽を形作ろうとする。そのとき彼が行う全ての動作は、言いようもなく時代や社会に条件づけられています。あるメロディを口ずさむ/あるリズムを奏でる/ある楽器を選ぶ。あるいは、作者/観客であるということさえも。もう一度言いかえてみる。音にまつわる全ては言いようもなく外部に条件づけられている。

自分を条件づけているものから目を背け、音楽を狭い意味での「音楽」と仮構すること。切り離された実験室の中で方法が方法を更新するような前衛。いまは2015年、そのフィクションをまだ楽しめるだろうか?

ここでダンスの方へ目を向けてみる。

もともとの始まり、社会にまつわるあれこれを機敏に反映するものとしてのコンテンポラリーダンス。それぞれが抱える問いの多様さに対応するように、新しいフォーマットがダンサーごとに生み出される。踊る/踊らない、フォルムとしての美/質感としての身体、見せること/見られること。

が、名付けの呪力を軽く見くびってはいけない。しばらくすると、なんとなく昔からいたような顔をして「コンテンポラリーダンス」的なものが形を帯びてくる。外部にいる者には分からない符牒のようなそれら。何よりもし、ダンサーの欲望がそのようなものへの目配せによって薄められているとしたら?

劇場へ行く。自分には全く計り知れない「身体」というもの。日常ではありえない集中でそれらを凝視する。今日は何が見れるだろう?

そう、そこにあるのはたぶん、ダンサーと同じ数の欲望と問いだけ。だからもう一度、ここから始めてみてはどうだろう?

「コンテンポラリーダンス」なんて、ない。

ケダゴロ「再・わっぜすかん」

1組目のケダゴロのパフォーマンスは非常に示唆的だった。池田亮司的なパルス音と共に一人の女性が登場する。前髪に隠れて顔は見えない。ほんの少しの差でバランスがアンバランスに勝っているためにかろうじて立っているような身体、そこから目が離せないでいると中盤から位相はがらりと変わり、鎖に繋がれた四人の男女が這いながら登場する。床を転げ回り、壁によじ登り、強く体を叩き...。

プロットやメッセージはさておき、ここで強く目を引いたのは、前半のある種コンテンポラリーダンス的な意匠から中盤以降の祭り/儀式的な運動への反転だった。前半の見る快楽の安穏は中盤以降おびやかされる。本来、祭り/儀式に鑑賞者はいない。が、今ここでは何かの制度によって鑑賞者であることを余儀なくされている。観客でいるということは?作品が作品であるということは?クオリティとは?様々な判断が宙吊りにされるような感覚を味わった。

新宅一平「アレ地」

カツラを被った男性がしずしずと登場する。曲は「エリーゼのために」。指示棒(ポインター)を取り出し、それを使っていくつかの動きが提示される。一つの動作が終わるたびに染み出してくる不条理な空気とブルースのようなもの。徐々に興味は新宅氏自身の方へと向かう。彼の普段の生活を想像し、どうしてもそれがいま目の前で繰り広げられている動きと二重写しになっていく。両者のギャップが大きくなればなるほど生まれてくる笑い。

中盤でカツラを脱ぎ捨て退場した新宅氏は、終盤になりアルミホイルに包まれ再登場、すっかり包まれきったところで終演を迎える。音楽がいつも嫉妬してしまう、舞台に立っているありようだけで何かが伝わること。それを十分に堪能しつつも最後の最後まで「じつはこの人はもっと面白い人なのではないか?」という歯がゆさも拭えなかった。例えば、小物等を使わず自身を中心に据えた作品を作るとしたらどんなものが生まれるだろう?もしそれがもうダンスと呼ばれないようなものであったとしても、それこそが見てみたいなどと夢想してしまった。

かえるP「宇宙の染み」

サラリーマン風の衣装を纏った男性が、時にバレエスターのように誇張された流麗さとともに踊っている。そこへ女性が2人踊りながら入ってくる。この動きは何だろう?ありえない動き。必要をも美しさをも志向しない動き。一つ一つの動作は一見自分にも出来そうな程シンプルなものなのだけれど、それが組み合わさった時、一つの発明のような見たことのないものになる。これが何なのか自分の中で場所を定めることができないまま、でも矢継ぎ早に新しい造形が目の前に現れるため、鑑賞は徐々に痺れるような快感に変わっていく。

しばらくすると、ある動作を試みるも最後まで遂行することが出来ず、そのまま中断したような格好で地面に倒れゆりかごのように揺れ続ける、という場面へ。結局は断念されてしまうのだが、動きの目的のようなものが一瞬垣間見えるため、より大きな単位でダンスを捉えられるようになる。この意味と無意味への距離感。もし同じことを音楽で試みたとしたら小難しくてとても聴いてられないものになるはずで、それをこれだけポップに、日常にあるようなものとして見せられるのはダンスが持つ疑いようのないアドバンテージだと感じた。もちろん本人のセンスもあるのだろうけれど。

最後は男性がありえないほど手を胸の前で閉じたり開いたりバタつかせつつも、それとは無関係であるような平熱のテンションで後説をして終演。上演の間中ずっと、一つ一つの動きを束ねているものは何だろう?と考えていた。それをわかりたいようなわかりたくないような。

*本批評は、10月31日〜11月1日に開催された「From 身体 To 批評」で上演された作品に対して寄せられた文章です。

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