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「From 身体 To 批評」批評文に対する振付家/ダンサーからの応答文

2015.11.26

BY 井上大辅, 下島礼紗, 新宅一平, 大園康司, 橋本規靖

2015年10月31日-11月1日の2日間、SHIBAURA HOUSE 5Fで「From 身体 To 批評」を開催しました。“身体”と“批評”をキーワードにしたこのダンス公演では、新宅一平(ドドド・モリ主宰)と、大園康司・橋本規靖らが主催するかえるP、そしてオープニングアクトとしてケダゴロがダンスを上演。批評役として伊藤キム氏、小泉篤宏氏(サンガツ)を招き、彼らの上演作品に対して、後日批評文を寄せていただきました。今回はその批評文に対する振付家/ダンサーたちの応答文です。
*批評は新宅一平とかえるPに対してのみ行われる予定でしたが、小泉篤宏氏はケダゴロについても触れていただきましたので、ケダゴロを主催する下島礼紗からのレスポンスを掲載しています。
>>伊藤キム氏の批評文はコチラ
>>小泉篤宏氏の批評文はコチラ

「From 身体 To 批評」企画 井上大辅(振付家/ダンサー)より

確かに、スタイルという意味においてコンテンポラリーダンスは無いと言える。しかし先人たちが積み重ねてきたコンテンポラリーダンスの土台のようなものはあるような気がしてならない。ダンスにはきっと生命誕生からの身体史のような側面があって、その歴史は私たちの日常の中にしっかりと根付き、更に日々更新し続けている。私たちは嫌が応にもその土台の上に立っている。ダンスを作る人間にとって、それはある時は目の上のたんこぶのような存在であるかもしれないし、ある時は大きな一助となっているはずだ。コンテンポラリーダンスは、地層のように積み重なった数多の表現のその地平の上に立っている。コンテンポラリーダンスなんて無いという小泉氏の言葉は、“新しい表現”などやり尽くされたと言われている現代において、コンテンポラリーダンスが向かうべき本質的な役割を提示してくれているように感じている。

ケダゴロ主宰 下島礼紗からの応答文

コンテンポラリーダンスに「革命」はいらない。そう思って急展開したのが今作。奏でない音楽家、描かない画家、踊らないダンサー、その人たちは言う、奏でているのだと、描いているのだと、そして踊っているのだと。とても恐ろしいと思った。その発想と感覚は、実に極論で超えづらい。やり抜いた結果、そこに行き着けた者たちがうらやましいとも思う。しかし、それが芸術と呼ばれるのだとしたら、その先は、良く言えば「ジャンルを超えた」、悪く言えば「消滅」なのではないだろうか。

「コンテンポラリーダンス」という魔法の言葉。たとえ下手くそでも、皮肉を言おうとも、ダンスを成立させてくれる。つまり、踊らないことさえも。優しさがすぎる恋人のように、何が起きようとも「作品」として包み込んでしまう。定義付けのないコンテンポラリーダンスの正体は、限りなく不確かで、今の私には、到底語れるものじゃない。だから仮説にすぎないが、コンテンポラリーダンスに定義付けがないというのは、イコール「自由」ではない。むしろ過激な「束縛」である。作者が自由に提示したものに、観客が束縛されている光景を目にすることがある。その作品はきっと成仏できない。コンテンポラリーダンス的マインドコントロールにかけられた観客によって視られた作品に「真実」は映っていないのではないだろうか。わからないものはわからないでいい。見るのがきつければ寝ればいい。何かを感じなければなんて思わなくていい。おもしろくないことさえも芸術としてうっとりしたいならすればいい。それくらい観客は自由であるべきで、そうした数え切れないほどの不確かな感覚に、作者が束縛されるべきなのだ。

こうして考えていると、無性に自分に腹が立つ。コンテンポラリーダンスに甘えているのは、私自身ではないか?どこか否定も肯定もできないでいる。いつまでコンテンポラリーダンスとは何か?を問い続けるのだろう。コンテンポラリーダンスそのものの概念を固定したり、否定したりしている作品は、もうコンテンポラリーダンスではない。そう思いながら、コンテンポラリーダンスを問い詰めたのが、今作であった。

しかし、小泉氏のいう通り、きっと「コンテンポラリーダンス」なんてないのだろう。「不在」だからこそ、その魅力と罠に引っかかる。いつか、コンテンポラリーダンスの存在を見つける日は来るのだろうか。知らないままでいたいと願ってしまう。

※わっぜすかん=鹿児島弁で「すごく嫌い」の意。

新宅一平からの応答文

【伊藤キムさん宛】
観客との距離の取り方、ということで言うと、自分も一つの素材として捉え、それを舞台と客席の間を繋ぐ通路のようなものとして提示出来たら、と思い創作しました。その上で、自分のやりたい方向と自分の体がそぐわない事も多々あり、改めて自分の体の特性や嗜好を意識的に扱う必要が生まれました。
一つのイメージを体で表すには最低限の予備動作が必要で(想像上の何かをひっぱる前にはまずぐっと力を込めて、といったような)その予備動作から、まったく別の動作をして別のイメージに繋げて、ぎりぎり成り立つところでまた壊し、を繰り返し、見てる側と踊っている自分の間で、意味が付き過ぎない、相互に交流出来るような関係が築けたらと思いました。

タイトルについては、自分の田舎の自然が宅地開発や高速道路で壊されていくのを見て、自分の体もそのように自然なものではなく人工的に開発されてしまったものなのだ、と強く思ったことがベースになっています。体は生ものかと思いきや、コンクリートで固められていたりドブ川が流れていたり、他人が勝手に出入りしたりする荒地のようなものだと感じます。また田舎道にエロ本が落ちていたり得体の知れない小屋があったり、そのような田舎の怪しい印象もまじえて、「アレ地」としました。

【小泉篤宏さん宛】
自分は振り子のようなものだ、と感じることがあります。行ったり来たりして留まってしまう状態に、どこにも行けないもどかしさを感じます。しかし、その振れ幅の支点に湧き上がる情景のようなものもあります。音がその振動の無明から、ぬっと顔をもたげて立ち現れていくように。振動、それは優柔不断な振れ幅で、繰り返される往復は、アリ地獄のような執拗さがあります。

日々の生活においても、そのような往復運動は、様々なサイズ、時間で存在していて、日常/非日常、人工/自然、自己/他者、男/女、生/死、パン/ごはん(冗談です)等々。枠組みを作る、という手元灯りがないと、知覚の混沌はあまりに暗く恐ろしい...しかし灯りを手にしたがゆえに、その場に引き止められて逃れられない呪いをも引き受けてしまった...

自分は振れるものを見ると哀しみのようなものを感じます。内側と外側の世界との折り合いが付かず悶々としてしまう性質なので、やるせなさとか因果を感じて同類憐れむのでしょうか。
しかしつい分かりやすく面白の方向に走ってしまうのは、他者に取りすがって生き残ろうとする無意識の計算からかもしれません。グッと自分から目を逸らさず何かを形作っていく、というのは今後の課題でもあります。どちらか一方に傾き過ぎると、危機感を感じてしまう遠いような近いような得体の知れない自分を抱えて。

かえるPからの応答文

かえるPは作品ごとの概ねの方向性は共有されていますが、出来上がるにつれて細かい部分での作品に対する考え方はずれていく、きっと批評を受けた作品に対する言葉もずれている、そういうすれ違いも含めてのかえるP作品なのです。それを表す為にも、大園・橋本がそれぞれ別で応答文を書くことにしました。

【大園康司からの応答文】
最近、色々な人と話す中で、改めて自覚したのですが、自分が普通だ、普遍的だ、と思うこと、またその感覚って、人によって様々で、非常にズレているということ。そのギャップを埋めることなく開き直って楽しめたらどんなにいいだろう。僕らが2人で創ったり、踊っている理由はそんなことにあるのかもしれません。

小泉さんが言われていた「名付けの呪力」という言葉。それによって、無意識に意識していたことをあぶり出されたような。なるべくそういった「名付けられるようなもの」とは無縁でいたい、という気持ちが根源的にあるような気がしています。その為に、明確に矢印を尖らせたりはしていないし、一見するとだらしない、上手くいかない、へなちょこな身体、またその様子や出来事をなるべく舞台上に起こしていくことを大事に考えています。その連なりを自らあえて「ダンス」と言い張ること。自分たちで名付けることと、いつの間にか名付けられてしまうこと、その差異は常に意識しなければならない。
どちらにも転がりうる曖昧な感覚が、キムさんの言われていた、観客との距離の取り方に関係しているのかもしれない、と気づきました。

「宇宙の染み」というタイトルは、独りの個人的な感覚と、壮大なイメージの密接な隣り合わせを目指したい、と思って“名付け”ました。個人的なことですが、稽古と上演を重ねていくうちに、衣裳のYシャツに血なのか汗なのなか、どんどん染みが出来てきて、個人的にこのタイトルがとても腑に落ちながら、踊っていました。

普段クリエイションの現場や、自分の頭の中でしか展開していかないこうした思考や態度を、文章に表すことで明確になる。そのことをこの企画を通して十全に味わいました。ダンスに対しての言葉、という外側からの視座を大事に、これからも「ダンス」を創っていきたいと思います。


【橋本規靖からの応答文】
キムさんのいうツンデレという言葉に、はっとさせられました。まさかツンデレだとは夢にも思いませんで、でもツンデレかもしれないと今では思ってます。 そもそも美しいものコンプレックスで、ダンスにたいしてある種の憧れを抱いて踊りを始めるも、ちょっと自分の想像とは違い上手くいかなかったので(何を上手くというのは色々あると思いますが)、上手くいかないということも受け入れて、上手くいかないことを目指しました。

例えば今回の作品は色んなルールを設けていて 最初のビリージョエル/ピアノマンのムーディーな音楽にあわせて、肩甲骨をとにかく寄せるというルールで踊る。 ルールの中で一番美しいであろう決めポーズ。見栄をはる。 美しいとか綺麗とか気持ちよくもないし上手くいってはいないんだけど、ただ懸命にそのことに取り組むこと。出来ないことを取り繕うより、こうしたらもっと出来なくなるを探してみた。という感じでしょうか。ルールのため現実的に制限されてしまう身体によって、なにかになってしまうこと。 結局のところ作品中ずーっと目標に向かっていくのだが、たどりつくのは少しずれたゴール。 それぞれ出演者にも観客にとっても上手くいっていたのかいかなかったのか、なってしまったゴール。 たぶん現実にもなってしまうことって色々あると思うのです。身体の姿勢とか性格とか思想やこういう文体も、探し始めたらどんなこともそうなのかとも思ってしまうのですが、かえるPの作品創作を振り返ってみても全てを決めきらずになってしまうことを大切にしていて、 それが、作品全体の背景になっているのかもしれません。

タイトルは、狭い世界のことばかりやっているので、突き放して壮大なタイトルがいいなぁと始まり、染みは僕らです。

こうやって批評されたりお客さんに言葉を聞くことは、例えどんなものであっても振付家やダンサーにとって内側にも外側にも新しい発見の場であり、ダンスを知らない人程もっと反応を聞いてみたいし、言葉にして貰いたい。ただ面白いやつまらないだけでなく、なぜそうなのかを考えることが出来たならダンスの世界がもっと豊かになるだろうと、いまさらながらに実感しました。 

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